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禅の響
zen no oto
工藤 煉山
LENZAN KUDO
哲学
Philosophy
現在、私は尺八奏者であると共に、肩書きを越えて、哲学者であり、環境活動家でもある。その道は私自身が選んだ事はなく、自然とそうなってしまった。
「答えは既に自分の心の中にある。」そう感じたのは十一歳の頃。同時に「死生観」について実感したのも、その頃。自然と尺八を始めたのも同じ時期だった。然しながら、さきに哲学を求めるものは少なく、また演奏家に至っても、同様に思う者はいなかった。私は常に私の道に疑いを感じ、悩み、挫折し、そうして答えを見つけるまで、とても長い年月をかけて今日に至った。一つの生きる道と出会い、今、やっと始点に立たされている。それが「禅の響」である。
尺八という「禅の響」は私に色々な事を教えてくれた。二元論の矛盾。唯識、空、地球で生きるバランス、また社会に不足しているものなど。
「禅の響」は私にとって宝物であり、また多くの出会いの繋がりにもなった。そうした機会も巡り合わせで、尺八の師、鎌倉で多くの気づきを教えてくれたZEN2.0、またその繋がりに、心から感謝している。
私は、奏者としての肩書きに縛られる事なく、尺八を通して知り得た知識と体験を様々な形で伝えていきたいと思う。それが私が人生で選んだ「禅の響」である。
工藤 煉山 LENZAN KUDO
哲学 Philosophy
呼吸=命
Breathing = Life
毎冬、尺八を作る竹を採るため、竹林に入っている。その都度、竹林が私を受け入れてくれた事はない。生命力が強い竹林ほど、非常に拒まれる。命を奪われる事を根を通して教え合い、身体が重くなるのを感じる。
人によっては、尺八の竹は出会いという人がいるが、私はそう思った事は一度もない。竹を採る際、竹は命を絶たれる事を怖がり、悲鳴を上げて拒絶する。
たまに呼ばれたかのように、気がつくと竹の集落に踏み入る事がある。竹々はこちらをじっと観察する。「一本、採らせてください」とお願いすると、「うむ」と言われる事はない。子一人、譲りたいとは誰も思わない。そして自分に問う。この命を奪う事は必要かと。
私は思う。呼吸を知る事は、自然の流れを知る事だと。命を奪う事は生きる上で最小限必要で、だからこそ、それを尊く思う。善悪のように二元論では生死の「死」は良くないものとされてしまう。然し、「死」は悪ではない。「死」は自然の流れであり、唯一時間の存在を与えてくれるものであり、贈り物のようなものだ。そして、また私達も「死」に抗う事はできない。過酷で無情な現実を受け入れる事が、呼吸を知る始まりではないだろうか。なぜなら心は自然と共にあるのだから。
身体=心
Body = Mind
尺八を教えていると、様々な身体と心に出会う。身体が心に影響を与えている事もあれば、心が身体に影響を与えている事もある。
心ー呼吸ー身体。心は表情筋を硬直させ蝶形骨の自由を奪う。心は心臓や胃などの内臓を硬直させ呼吸筋の自由を奪う。筋肉の自由を奪われた身体は、肩甲骨、仙骨の空間を奪う。そうして身体全体のバランスを奪う。怒りは一時的には役立つが、続けると身体に負担がかかってしまう。然し、決して温和でいろとも思っていない。人間には様々な感情がある。それこそが人間である。人間としての身体と心のバランスを習得した時、呼吸は一人では成り立たない事を知る。森に生きる樹々と同じように、助け合いの中で呼吸は存在する。それは人間だけに留まらず、生きとし生きるもの全てを飽和し。
尺八を教える時、私は、技術を教える事と共に、一人一人が抱えている心と身体の問題に寄り添うようにしている。日々の大切さと呼吸の在り方を知って欲しくて。
息=空間
Breath = Space
息は通常見えるものではない。無きものにして在り。「息」は私のものであり、また私のものではない。
尺八を奏すると、自身であり、自身ではない感覚になる。それはそうした「息」で空間を満たしているからなのだと思う。また尺八には、「メリ」「カリ」なるものがあり、端的に説明すると。「陰」「陽」の音、「弱」「強」の関係性。また同じ音程でも指使いが違う音や、息も「吐く」「吹く」などを使い分ける。曲には「間」という「空」と同様な時間があり、それらが絶妙にバランスをとり、形成されている。一つでも欠けると吹禅(すいぜん)は成り立たない。
「自己」「利他」ではない「息」を共有する事で、「空間」を感じる事ができる。
吹禅=空
Suizen=Ku
吹禅(すいぜん)とは悟りを開くための修行の一つ。座禅に対して、同じ事を尺八を使用し修行する事である。一音成仏(いっとんじょうぶつ)という思想もあり、自身、他人ともに、尺八の音、一音を持って悟りを開くとされている。
尺八の音には、無音ー噪音ー有音ー余韻ー無音という人生のような流れがあり、始まりがあれば、終わりがある事を常々教えてくれる。吹禅が終わるまでそれを永遠に繰り返す。身体の細胞が生まれ死に、また生まれるように。
余談だが、尺八を無意識になる状態で奏する際、稀に一粒一粒が線として繋がっている糸が蜘蛛の糸のように、無数に空間に浮遊しているのを見る事がある。それは聴いている方からも私からも発せられており、あれが何なのかは未だにわからない。
吹禅は暗譜で奏する。その最中、運指、音のイメージ、そうしたものから解放されると一つ目の無心の状態に入る。それは今だけに焦点が当てられる世界。私はその瞬間に入ると恐怖を感じる時がある。さらに次の次元に入る。身体も空間も一体になる瞬間。その時に蜘蛛の糸が見える。
悟りとは何なのかは私はわからない。然し、吹禅を通して感じている事は、信じる事、願う事、祈る事。その大切さ。そして命を燃やす事である。
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