禅の響を求めて

 ふと、何故、私は尺八を吹いているのか。そのような事を思うことがあります。今年は特に様々な視点で考えさせられました。メニエール病で二十代後半から尺八ができなくなり、35歳で活動を再開した時、私は仕事のためではなく、人や地域、地球の環境に寄り添う音楽を続けようと誓いました。それが、ゆくゆく禅の哲学や、その響の探求に繋がっていくのですが。今年はそうした心に揺るぎないか、問われる出来事の連続でした。

 一人の自分が問いかけます。「自然、自然というが、お前の音色は本当に自然の響なのか」と。私はその問いに答える事が容易にできませんでした。それは過去への執着であったり、演奏家としてのプライドであったり。また、ないものを作る勇気を持てないでいた事でもありました。



 series「禅の響 - ZEN no OTO-」を初めて1年が経ち、当初は、ただ演奏家として、自然の響を求めていたに過ぎないと痛感しました。見せ方もART的に、少し現代的な見せ方をしていましたし、当たり前といえば当たり前ですが、演奏家として見せ方にはかなりの努力をしていました。しかし、それが徐々に私の中で「自然の響」を求める上で違和感を感じさせるようになりました。


芸術=自然の響ではない


 私が気がついた「自然の響」は我心は勿論、存在などなく、流れ、消えていく。技術や表現を超える何か。芸術ではない何か。竹の命を「自然の響」へ還したいと思うようになってから、本当にそのように思うようになりました。それは、もしかしたら竹採りを通して、命を奪う尊さに触れたからかも知れません。また元々、幼少より感じていた哲学性によるものかも知れません。


芸術を捨てる


 とはいえ、芸術を捨てるというのは、とにかく難儀です。私は不器用で、演奏家として芸術を求める一方、その行き来は本当に難しい。聴く人によっては、自然の響はとても不安定で西洋的な視点では評価されないかも知れません。演奏家としては不安しかありません。そんな時、自分に問います。「自分の好きな響、求めている響はなんなのか」と。無論、自然の響です。

 芸術の観点を外す方向で「禅の響 - ZEN no OTO」に挑みますが、それでも演奏家としての表現や仕事として演奏をしてきた事を考えると、とても怖い。恐怖でしかない。しかし捨て方を教えてくれるのも、また尺八という楽器でした。必要以上に作り込まない尺八。変わった音の尺八が生まれても見捨てる事なく向き合う。そうした尺八で吹禅をする事で自然とは何かを知る機会を頂きました。


まだ自然ではない。


 雑音の中に温かみや冷たさを聴く人によって感じる。感情を委ねるような響。10月に「禅の響 -ZEN no OTO- vol.4」を終えた頃から、朧げながら自分の求める響がやっと想像できるようになりました。コンサートの中でも何曲か、そうした響になる予感を感じました。その後、ZEN2.0のスピンオフで円覚寺での吹禅などを通して挑んでいますが、まだまだ遠い道のりです。


禅の響を求めて


 私が求める禅の響はまだまだ道半ばです。まだまだ独りよがり。自然の響に人々が心地よく、ずっと触れていたい、日本人の感性と心に触れらるような響を求めていますが、まだまだ歩き始めたばかりに感じます。それでも今年は円覚寺さんのご縁や、引き続き、ZEN2.0のご縁。その他に出会った方々にも、自分のありのままでいられる場所を沢山頂きました。心から感謝をしています。


 来年は改めて身体性と哲学をお求めて尺八の修行に励みます。また、こうしてブログなどで言葉や録音などでも感じてもらいたいと思っています。その際は、そっと私なりの「自然の響」に触れていただけると幸いです。


皆様も良いお年をお迎えください。


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風が鼓膜へ運ばれる。

どうして、風はこんなにも無機質なのだろうか。


風が森の葉を触る

川の水に触る

空の雲に触る


どうして、風は心に響くのだろうか。




それは、この世が、

いっぱいの何かで満たされているから。




響は、私に教えてくれる。



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