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思考の隙間 〜関節の空間と瞑想で感じる事〜


 とても不思議な感覚。最近、瞑想(坐禅)と向き合う時間が増え、思考をしない中にも身体に影響を与える深いレベルがある事を感じます。

 「坐禅と吹禅」で坐禅後に尺八を吹く際の事。いつものように吹く尺八の感覚に違和感を覚えるようになりました。いつも通り、自然の呼吸と共に。僕は思考せず吹禅をします。これが何とも上手くいかない。というより、気持ちが悪い。恐れすら感じます。何が違うのか。それから、時間の取れる限り、日常でも瞑想をしてから尺八を吹くようになりました。


 思考の隙間。「思考」しないと思っていたり、「自然の呼吸」に集中した時点で、それはもう、両方が脳に作用しているわけですけれど、今までは、そうならないように、身体に落とし込む事で、それが出来ていると思っていました。それが日常、瞑想後に吹く事で、大いなる勘違いだった事に気が付いて、もう、とても今までの自分が滑稽で、顔から火が出るほど恥ずかしい。無我の境地は深海のように深い。そう思います。「身体に落とし込む」。それは、まず自身の身体と脳がまっさらである必要があります。自分が知っている自然体ではなく(それが、どんなに自我ではないと思っても、自我でない事はなく、深海魚のように泳いでる。)、生命体としての自然体(もっと深い部分。魂や肉体。)で行う。その度合いを深める大切さに今更ながら気が付かされました。さて、音はどのように変化していくのか。


 話は変わり、瞑想について。もう二年くらい前になります。いつも半跏趺坐(はんかふざ。片足を膝の上に乗せる座り方)で行っていたのですが、どうも落ち着きが悪い。そう感じるようになりました。そうだ、結跏趺坐(けっかふざ。両方の足をそれぞれの足の上に乗せる座り方。)を出来るようにしようと思うようになりました。とは言ったものの、僕は身体が硬く、十代の時に膝を手術していて、絶対に無理。そう決めつけていた分、遠い目標の先の目標。円覚寺管長の横田老師から結跏趺坐が出来るよう、少し手解きを受け、雲水さんと混じりながら、身体性の講義を老師のご厚意で参加させていただき、それでも今だ、遠い道のりです。が、少し感じている事を。

 

 耳の病気の事もあり、今年三月から宮崎姿菜子先生から太極拳と気功を習うようになりました。そこで、五月に武当太乙養生功十三式というものを、リトリートで習う事ができました。単純でありながら、肩と股関節が抜けていく感覚。背骨を捻じる事で内臓が活性化して、気が巡る感覚。現在、四ヶ月を過ぎた頃でしょうか。片足はすんなりと楽に坐に着くことが出来るようになりました。膝が弱いもう一つの足は、もう少し。それでも関節が抜ける事が出来るようになり、瞑想が実に気持ち良いです。円覚寺でのワークショップの成果もあり、身体の変化がとても楽しい今日この頃です。坐禅の際、「思考を流す」事を教えられましたし、姿勢も坐骨で座るなど呼吸と身体を意識していましたが、今はそれも無くなりました。ただ坐る。そうすると、関節と背骨の空間がどんどん広がり、気持ち良さから思考もどんどんなくなります。僕の場合、毎回40分経つ頃、そうした状態になります。姿菜子先生曰く、36分頃から大体の人は気が巡るようになり、そういう状態になるとか。成程。武当太乙養生功十三式と瞑想は食事やお酒を飲む事より、何より、気持ちが良い。そんな感覚です。坐禅、瞑想されている皆さんは、どのように感じているでしょうか。興味があります。ここにきて、久しぶりに少し修行モードの日々。


 身体が整えば、気が巡り、心も整う。その先に、隔たりない柔らかな。音。それは、無上の気持ち良い世界。


 ちなみに姿菜子先生によると、僕は身体が硬いわけではないという事で、自分で作った先入観でそうしていただけのようです。できない事はない。そう思う、今日この頃。

 

 


  

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