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執筆者の写真Hiroyuki Kudoh

生き様も残さない

 たまに厳しく過激にいこうか。きっと生き辛い思いをしている芸術を志している人もたくさんいるだろう。そうした人のために。坐禅と吹禅をしていると、そうした人も足を運んでくれる。その人たちのために。もしかしたら自分のために。



 いつからだよ。ARTや音楽を結果だけで見る奴が多くなったのは。そんな事だからやる人間もそんな腐り切った奴が多くなるんだよ。人が見ていいと思うものを重視して、自分の心も突き破れない奴。そんな奴と自分を比べるな。お前の方が何百倍も優れているし、温かい。ありきたりの言葉や行動で人は感動されられない。ありったけを惜しまず、冷静であっても、出したいものを突き通せ。

 尺八をしていると倍音とか、なんとか楽器について言ってくる奴も多いけど、俺はとても小賢しいと思う。数字とか科学とか。昔の楽器を使って、倍音なんかなくても感動させられた音楽家なんか山ほどいるよ。そんな最初から倍音がなる楽器を作って、みんな同じ音色になって嘆いている、何か違っているって感じている奴もたくさんいるよ。音楽はフレーズや自分の声のように独自のものがあって、そうしたものを一生懸命求め続けて感動させられるんだよ。楽器だけの小手先の生き方では何も伝わらないよ。誰もが簡単にできる音は料理のレシピと一緒。いつでも誰でも簡単に同じ料理ができる。そんなものに最高の感動があるのか。俺はないと言い切れる。涙する程、心が震える程、そんな経験をした事がない奴ほど、手軽なものに溺れる。自分の足が震えながら、立ち向かって、挫けて、くたくたになって、それでも這いつくばって。プライド捨てて。そうした奴の表現を見るから感動するんだよ。


 タイパは俺の中で一番嫌いな言葉だ。時間をかけて、その時その時でわかる事がある。変化が愛おしい。それをわからない人は、きっと何も掴めない。掴んでいると思っているものは、手をすり抜けるものばかりだ。

 表現する側も、見る側も真剣勝負。お互いにお互いの成長を楽しみあう。ただ、その物だけで満足する愚か者ども。


 俺たちも甘えるな。諦めてる奴ら。まだまだ表現を心の奥から引き出していないだけだろ。それができなくて、ツベコベ人の批判とかエンタメが悪いとかいうな。みんながみんな、続いている奴は必死に生きているんだよ。何かを表現するために。


 生きているなら、巻き込め。巻き込まれろ。伝えるんじゃない。感じ合え。


 耳がなくなろうが、足が無くなろうが、手が無くなろうが、口から息が出ているなら、それだけで感動させるよ、俺は。


 最近、まだ自分の中で、こんな若造な、まだまだ燃えているものを感じる。そろそろかな。

 


 

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